Ⅰ. はじめに
「ビジネスと人権」におけるもっとも重要な文書である国連「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下「国連指導原則」といいます。)が、2011年6月に国連人権理事会において全会一致で支持されてから、15年が経過しようとしています。
15年の節目を迎えるにあたり、改めてその軌跡を振り返りたいと思います。
Ⅱ. 国連指導原則誕生の背景
国連指導原則が誕生した背景には、経済がグローバル化し、多国籍企業が国境を越えて、特に発展途上国にそのサプライチェーンを構築するようになり、特にそうしたサプライチェーン上で、労働者や地域社会が人権侵害や環境破壊などの不利益を被ってきた状況がありました。
2003年には、企業に対して、国内法のみならず国際法で認められた人権についても、その活動と影響力の範囲において促進・尊重等する義務(obligation)を課そうとする「超国家企業及びその他の企業の人権に係る責任に関する規範」(以下「規範」といいます。)が提案されましたが、企業に拘束力ある義務を設けることを提案する点で熱烈にこれを支持する人権擁護団体と、国家に属すると考えられている義務を企業に移転することに激しく反対するビジネス社会との間に、深刻な軋轢を生み出す論争を引き起こし、結果として、人権委員会で支持者を得ることができませんでした(ジョン・ジェラルド・ラギー(東澤靖・訳)『正しいビジネス 世界が取り組む「多国籍企業と人権」の課題』(岩波書店、2014)3頁)。
そうした状況の下で、ジョン・ジェラルド・ラギー氏(ハーバード大学教授)が、「人権と多国籍企業およびその他の企業の課題に関する国連事務総長特別代表」に任命され、2008年、「『保護、尊重及び救済』の枠組み」を提案しました。同枠組みは、国家の人権保護義務を明記する一方で、企業に義務(obligation)ではなく人権尊重の責任(responsibility)を課すこととし、国連人権理事会において全会一致で歓迎(welcome)されました。
国連人権理事会は、ラギー氏の任期を延長するとともに、同氏に対して、枠組みを「運用できるようにする」こと、すなわち、枠組みの実施のための具体的かつ実行可能な勧告を出すことを求め、最終的に、2011年、ラギー氏が国連指導原則を提出し(国連指導原則序文第9項)、日本も参加国として含む人権理事会において、全会一致で支持されました。
Ⅲ. ハードローへのインパクト
こうして長い議論を経て誕生した国連指導原則は、その後15年にわたって、世の中に大きなインパクトを与えてきました。その重大なインパクトの一つが、企業に人権に関する法的義務を課すハードローの誕生に関連するものであるといえます。
国連指導原則は、国家に対して、その人権保護義務を課すために施策を講じるように求めています(同「Ⅰ.人権を保護する国家の義務」)。これを受け、世界中で様々な人権保護のためのハードローが制定されてきました。当初は、米国カリフォルニア州(サプライチェーン透明法・2012年)・英国(現代奴隷法・2015年)において、企業に対して人権尊重の取組それ自体ではなく開示を求め、間接的に人権DDの実施を求める法令が制定されていましたが、その後、フランス(注意義務法・2017年)やドイツ(サプライチェーン・デュー・ディリジェンス法・2023年)で企業に人権・環境DDを求める法令が制定され、企業に対して実際に取組を行う義務が課されるに至りました。
こうした企業に対して直接・間接に人権(・環境)DDの実施を求めるものとともに、強制労働等の特定の人権・環境課題を伴う製品の輸入を禁ずる法令が、米国(ウイグル強制労働防止法・2022年)、EU(森林破壊製品上市等禁止規則・2023年)等において制定されるに至りました。これらの法令も、強制労働等製品の輸入禁止を通じて、企業に対してそのサプライチェーンを通じた人権DD等の実施を要請するものといえます。
Ⅳ. CSDDDへのインパクト
その中でも、特に重要な法令の一つが2024年に成立したEUの企業サステナビリティ・デュー・ディリジェンス指令(CSDDD)です。本法令は、EU域内外の一定規模以上の企業に対して、そのバリューチェーンを通じて人権・環境DDの実施を求めるものです。
CSDDDは、2024年7月に発効しましたが、その後、2026年3月に成立したオムニバス法によってその内容が簡素化されました。
当初のCSDDDにおいて、企業は、自社・子会社の事業活動に加え、バリューチェーンにおける実際の又は潜在的な人権・環境への負の影響を特定・評価する必要があるとされていましたが(8条1項)、オムニバス法の議論の過程では、企業による取組の対象を限定することでその負荷を軽減する議論が行われていました。
例えば2025年6月に公表された欧州理事会の交渉ポジションでは、バリューチェーンに含まれる取引先(business partners)のうち間接取引先については、要旨、企業が間接取引先における負の影響を示唆する客観的で検証可能な情報(objective and verifiable information)を認識し又は合理的に認識することが期待される場合に限りDDの対象とするという枠組みが提案されており、間接取引先をDDの対象から原則として除外しようとしていました。
こうした建付けは、前記Ⅱ.のとおり発展途上国に延伸するサプライチェーン上で深刻な人権課題が起きており、そうした課題にリスクベースで対応することを求めていた国連指導原則と乖離してしまう可能性がありました。このことはすなわち、大企業から見れば自身から遠い間接取引先における負の影響の方が深刻になりやすい場面もあるにもかかわらず、直接取引先の試みを企業に要請するものともなり得、意図せずに形式的な取組を促進させる可能性が指摘されていました。
しかしながら、最終的に、オムニバス法は、国連指導原則と整合するリスクベース・アプローチを堅持し、直接取引先か間接取引先かを問わず、同等にDDの対象とすることしました。このことは、国連指導原則の考え方がCSDDDにおいても踏襲されていることを示しており、CSDDDを理解するためにも国連指導原則の考え方が非常に重要であるといえます。
Ⅴ. 国連指導原則の不変の意義
こうした状況の中で、2026年3月26日、Shift(国連指導原則を起草しその策定を主導した故John Ruggie教授が生前会長を務め、また、同教授とともに国連指導原則の策定に深く関与したCaroline Rees氏及びRachel Davis氏が共同で創業した、ミッションを中核とするグローバルな非営利組織です。)のPresident兼Co-founderであるCaroline Rees氏は、国連指導原則の成立15周年を記念する論文集の第1回を公表しました。
本論文は、UNGPsがもたらしてきた変化を、Ruggie教授の理論的背景に遡りながら整理し、その意義を明らかにするものです。企業が人権尊重の主体として位置付けられるに至った思想的転換や、その後の各国における法制化・実務対応の進展を俯瞰する内容は、現在のビジネスと人権の議論を理解するうえで重要であり、当職らは、Shiftの許諾を得て、当職らによる和訳を本ニュースレターにおいて公開いたします(和訳の正確性をShiftが保証するものではありません)。Rees氏の論文(英文)及び第2回以降の論文については、https://shiftproject.org/ungpsat15/より参照ください。
キャロライン・リース(Shift最高経営責任者 兼 共同創業者) UNGPsの内容:より公正なシステムを推進するための設計 UNGPsの枠組み:累積的かつ永続的な変化のための設計 |