Ⅰ. はじめに
近年、企業の化学物質規制対応では、労働安全衛生法、特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律(以下「化管法」といいます。)、毒物及び劇物取締法(以下「毒劇法」といいます。)に基づくSDS(Safety Data Sheet:安全データシート)の交付義務、化管法に基づくPRTR制度、欧州におけるREACH規則(Regulation (EC) No 1907/2006)1、欧州におけるSCIP (Substances of Concern In articles as such or in complex objects(Products))データベース2など、国内外において化学物質に関する様々な情報管理への対応が求められるようになっています。
また、取引先からの化学物質調査、サプライチェーンを通じた情報提供、ESG対応、M&Aにおける環境デューデリジェンス、企業不祥事・危機管理時、訴訟紛争時など、化学物質に関する情報を適切に把握・管理することが求められる場面も年々増加しています。
このような状況から、「情報提供義務が増えている」、「書類作成の負担が大きくなっている」という印象を持つ企業も少なくないものと考えられます。
しかし、近年の化学物質規制が重視しているのは、情報そのものではなく、企業が化学物質に関するリスクを適切に把握し、管理し、その結果を合理的に説明できる体制を構築することです。
本稿では、このような観点から、企業に情報管理が求められる理由について検討します。
Ⅱ. 企業リスクは「情報管理の不十分性」から始まる
化学物質規制に関し、企業が直面するリスクは、もはや行政処分だけではありません。
近年では、取引先による監査、製品保証、サプライチェーン管理、ESG評価、不動産取引やM&Aにおける環境デューデリジェンス、企業不祥事・危機管理時、訴訟紛争時など、多くの場面において、企業がどのような化学物質を取り扱い、どのような管理を行っているかが問われています。
もっとも、問題となるのは、単に化学物質が存在するという事実だけではありません。
企業においては、「どのような化学物質を使用しているのか」、「どのような性質を有しているのか」、「どこで使用されているのか」、「いつ使用されていたか」、「どのような管理を行っているのか」、「その状況を説明できるのか」等が問題となります。
このような情報を適切に把握できているかどうかが、企業価値や企業リスクを左右する場面が増えています。
言い換えれば、近年拡大しているのは、化学物質リスクそのものだけではなく、化学物質に関する情報を十分に管理できないことによって生じるリスクでもあるといえます。
このような情報管理の不十分性は、企業における適切な意思決定を困難にします。その結果として、環境リスクを拡大させる要因にもなり得ます。
Ⅲ. 企業はなぜ情報管理を求められるのか
1. 企業自身が最もリスクを把握できる
化学物質に関する情報は、その化学物質を取り扱う企業自身が最も多く保有しています。
どのような原材料を調達し、どの工程で使用し、どの製品に含有され、どのような方法で保管・廃棄しているかは、日々事業活動を行う企業でなければ把握することができません。
環境リスクを最も早く認識し、その変化を把握できる主体は企業自身です。
そのため、企業には、自ら情報を把握し、継続的に管理することが期待されています。このため、近年の化学物質規制では、情報を継続的に把握・更新し、その内容を適切に管理すること自体が、企業に求められる重要な対応となっています。
企業の事業活動や製品・サービスに関して、環境負荷についての情報の開示・提供を進めることによって、各主体の環境配慮活動を促進する手法は「情報的手法」といわれることがありますが、この手法の長所としては、行政のリソースの限界に対処できること、各主体における対策が柔軟性を有していることが挙げられます3。
企業は、化学物質に関する情報を保有し、リスクを把握できるからこそ、その情報を意思決定へ活用することが重要になります。
2. 情報は企業自身の意思決定を支える
情報管理の目的は、化学物質を規制する行政への報告に限られるわけではありません。
重要なこととしては、企業自身が、様々な場面において、より適切な意思決定を行うことにあります。
例えば、化学物質の性質やリスクを把握することによって、新製品の開発、設備管理の見直し、代替物質の検討、保管方法の改善、サプライチェーンの見直し、取引先との契約内容の検討、危機管理時や訴訟紛争時の対応の在り方の検討など、より適切に様々な経営判断が可能になります。
また、情報は、単なる記録ではありません。
企業が環境リスクを理解し、将来のリスクを低減するための意思決定を支える基盤となるものです。すなわち、情報管理は、企業が環境リスクについて適切な判断を行うための前提条件と位置付けることができます。
3. 情報は企業の信頼を支える
近年、企業は、行政だけに説明すればよい時代ではありません。
取引先、投資家、金融機関、地域社会など、企業を取り巻く多様なステークホルダーに対し、自社のリスク管理について説明することが求められています。その際、「適切な管理を行っていた」と説明するためには、その前提となる情報が不可欠です。
また、化学物質規制について行政が注目しているのは、単に問題が生じた結果としての汚染や法令違反のみではありません。企業が化学物質に関するリスクをどのように把握し、理解し、管理し、説明していたかが重視されるようになっています4。
さらに、近時の化学物質リスクの特徴としては、「発生態様の多様性」、「物質特性の多様性」という二つの特徴が存在します5。こうした二つの特徴に適切に対応するためにも、企業としては、自社で取り扱う化学物質の特徴や発生し得るリスク態様に応じた情報管理・リスク管理がより重要となってきているといえます。
このように、情報管理は、企業の説明責任を支える基盤でもあり、またレピュテーションリスクに対する重要な対応基盤でもあります。このような管理体制は、個々の法令への対応を効率化するだけでなく、新たな規制への対応や企業危機への迅速な対応、ひいては企業価値の維持・拡大にも資するものと考えられます。
Ⅳ. 企業に求められる情報管理は変化している
もちろん、Ⅰ.で述べたSDSやPRTR制度など、化学物質に関する情報制度自体は以前から存在していました。
しかし、近年は、それらに期待される役割が大きく広がっています。
従来は、危険性を伝達し、法令上必要な情報を提供することが中心でした。
これに対し、現在では、化学物質のライフサイクル全体6を通じたリスク管理、サプライチェーン管理、ESG対応、M&Aにおける環境デューデリジェンス、企業不祥事・危機管理時、訴訟紛争時など、企業の経営判断を支える基盤としても機能するようになっています。
このように、情報は単なる化学物質の危険有害性の伝達手段ではなく、企業がライフサイクル全体を通じてリスクを管理するための共通基盤として位置付けられるようになっています。
その結果、企業に求められる情報管理も、単なる法令対応から、環境リスク管理全体を支えるものへと、その重要性を増していると考えられます。
労働安全衛生法・化管法・毒劇法に基づくSDS制度や、化管法に基づくPRTR制度、欧州REACH規則などは、それぞれ制度目的や対象は異なりますが、いずれも企業が化学物質に関する情報を把握・管理し、それを適切に伝達することを通じて、環境リスクや健康リスクの低減を図るという共通の側面を有しています。すなわち、近年の情報制度は、企業が環境リスクを自律的に管理するための共通基盤として理解することができます。
Ⅴ. 企業法務に求められる視点
例えば、本稿で言及したものの中でも、M&Aの文脈では、過去の未届PRTR、SDS未交付等は、企業が予期せぬ環境債務を負うことや表明保証・価格調整・補償請求の問題の原因となり得、ディールリスクとなり得ます。
また、自社で取り扱う化学物質に関し、適切な情報管理ができていない場合、もし当該化学物質を起因とする企業不祥事や企業危機が生じたときに、迅速かつ十分な対応ができなくなるおそれがあります。近時、企業不祥事・危機管理においては、初動対応がますます重要となっており7、企業としては、関係者に対する説明責任の観点からも、最終的なリスク負担の軽減や被害拡大防止の観点からも、平時からの適切な情報管理が必要といえます。
このような状況の下では、企業法務に求められる役割も変化しています。
化学物質規制に関し、法令上の情報提供義務を確認するだけでは十分ではありません。
情報をどのように社内で共有し、契約へ反映し、サプライチェーン全体で管理し8、M&AやESG対応、企業不祥事・危機管理対応、訴訟紛争時へ結び付けるのかが重要になります。
化学物質については、ライフサイクル全体を通じた情報管理を、企業全体のリスク管理へ結び付ける視点が必要です。そのためには、こうした情報管理を可能とする社内体制整備が不可欠といえます。
こうした中、このような体制整備が必要かつ可能であるのに、これを怠り、企業の役員が損害を及ぼしたような場合には、体制整備義務や取締役の監督義務の違反を理由に、株主から役員責任追及の問題も生じ得るものと考えられます。
化学物質規制の特徴としては、国内外の複数の法令等が同一物質に適用され得ます。そのため、法令単位ではなく、物質単位で横断的に整理し、管理部門が連携した一元的な管理体制を構築することが重要であるといえます。
そして、化学物質については、日々、科学的知見のアップデートが見られる点でも特徴的であり、その物質特性に関する知見も可能な限り適切に把握、更新し、さらには適切に記録化しておくのが望ましいといえます。
以上で述べたとおり、近年の化学物質規制では、情報提供義務そのものが拡大しているというよりも、情報管理に期待される役割が大きく広がっていると理解することができます。
Ⅵ. おわりに
近年、企業へ情報管理が求められるのは、情報そのものを収集することが目的であるからではありません。
企業自身が環境リスクを適切に把握し、様々な場面においてより適切な意思決定を行い、その結果を合理的に説明できる状態を構築することが期待されているためです。
その意味で、化学物質に関する情報管理は、単なる法令遵守のための事務ではなく、環境リスク管理全体を支える基盤として位置付けることができます。
また、近年の化学物質規制では、命令や禁止といった直接的な規制手法に加え、企業が化学物質に関する情報を把握し、共有し、活用することを通じて、自ら適切なリスク管理を行うことへの期待が一層高まっています。
このような動向を踏まえると、近年の化学物質規制においては、化学物質そのものの管理だけでなく、「情報管理」という視点の重要性が従来以上に高まっていると考えられます。企業にとっても、「情報管理」を、個々の法令への対応として捉えるのではなく、環境リスク管理全体を支える基盤として位置付けることが、リスク管理にとっても、意思決定にあたっても、今後ますます重要になります。
化学物質規制を考えるにあたっては、「どのような化学物質を管理するか」という視点だけでなく、「どのような情報を把握し、活用するか」という視点から企業のリスク管理を見直すことが、企業価値の維持・拡大のために重要になるものと考えられます。情報管理とは、法令対応のための付随的業務ではなく、企業の意思決定と環境リスク管理を支える基盤であるといえます。
- Regulation - 1907/2006 - EN - REACH - EUR-Lex
- 欧州化学品庁(ECHA)が策定するSVHC(Substances of Very High Concern)含有情報を登録するデータベース。
- 大塚直『環境法 第4版』(有斐閣、2020年)117頁、同『環境法BASIC 第5版』(有斐閣、2026年)89頁。
- Administrative Law Newsletter/Environmental Law Newsletter 2026年6月22日号「化学物質に関する環境リスクと行政対応-情報管理とリスク管理の観点から-」
- Administrative Law Newsletter/Environmental Law Newsletter 2026年6月22日号「化学物質に関する環境リスクと行政対応-情報管理とリスク管理の観点から-」
- 化学物質の「ライルサイクル管理」を解説するものとして、川端健太ほか「業種別 環境法務の最新トレンド(3)化学・石油化学業」(ビジネス法務Vol.26 No.7、中央経済社、2026年)118頁、Environmental Law Newsletter 2026年6月11日号(Vol.27)「化学物質規制は「ライフサイクル管理」の時代へ-サプライチェーン・M&A・企業価値への影響-」。
- Administrative Law Newsletter 2026年5月18日号(Vol.6)「行政処分は初動対応で決まる-問題発覚直後の判断が処分と企業負担を実質的に規定する-」
- 環境リスクのサプライチェーンにおける管理について検討するものとして、Administrative Law Newsletter/Environmental Law Newsletter 2026年5月19日号「サプライチェーンにおける責任はどこまで及ぶのか-なぜ契約ではリスクを遮断できないのか-」。